とある看護師のひとりごと

その時思ったことなどの備忘録。

言葉より大切なもの

学校の実習中に患者様の所で医療処置の
見学をするときに、ある学生が
緊張して「見学させていただきます」
と言いました。

その後、先生から「何故あの時見学という言葉を使った?失礼ですよ!そんなこと言う人に見られたくない!」と怒られていました。


確かに言葉には自分が思ったよりも
影響があり、時には人を傷つけたり
逆に誰かを励ましたりと
人生を変えるような影響力があると思います。


ただ私は言葉や単語自体にはそこまでの力は無くて、それを発する人のノンバーバルな部分がとても大切だと思っています。


例えば、何か人に物事を頼む時に
険悪な表情で、視線も合わせずに
「自分でやってよ!」というのと


柔らかい表情で、視線を合わせながら
「自分でやってもらっても良い?」というのでは圧倒的に後者の方がやる気が出ると思います。


勿論、その単語のみで人を不快にさせるものも沢山あるから一概にそうではないかもしれませんが。


私は、上手い言葉が出てくるほど
話はうまくありません。むしろ下手です。

そして、声も低いしぼーっとして
人にぶっきらぼうな態度をとってしまったり
高圧的な態度をとっていることもあるかもしれないです。

だからこそ、人と関わる時は意識的に
受け取る人の立場にたってコミュニケーションを図るように心がけています。

どんな人にも礼儀を忘れずに。


一生懸命頑張っている人が
緊張して発してしまったちょっとした
失礼な言葉は、私だったら全然気分は悪くならない、寧ろ自分のために一生懸命向き合ってくれてありがとうと思う。

相手を思いやること、行動することは
言葉よりも大切だなと思います✨

夫婦の在り方

夫婦の在り方というのは

人それぞれあっていいと思います

 

例えば、

一方が稼ぎ柱で、一方が家事に専念する

こともお互いが我慢などなく納得の上で

行われているのであればそれも一つの形だし

 

お互い働いて、お互い家事をすること

得意分野をお互いが行うこと

それぞれがその人たちに合っていれば

それがその人たちの最適な夫婦関係なのではないか

 

不倫していたって

お互い納得の上なら良いと思うし

夫婦の形を他人がどうこう言う問題ではない。

(DVや虐待はまた話は別、人権侵害に関することは🙅‍♀️人権を侵害する権利は誰にもない)

 

うちの夫婦は、付き合ってた頃から

ラブラブカップルではなかったけど

なんでも話せる親友、最適な人生のパートナーだと思っている。

 

 

 

結婚するとよく不自由なことが増えるように

思っている人もいるし

結婚するまでに重きを置いている人もいる気がする。

 

結婚自体がめでたいわけではないし

だからといって不自由になるわけではない

 

 

 

相手をどれくらい思いやるかが大切なのではないか。

"相手を傷つけることはしない。"

それが夫婦の在り方の極意だと思う。

 

 

あとは、結婚もしたければすれば良いし

しなくても良い。本当したからってめでたくないししてないからって焦ることもない。

どんな生き方してたっていい。

その人が幸せならば。

意見を言うこと

これは昔から変わらないポリシーの一つ。

私は自分の意見を言わないでいるのは

なんだかずるいことのように思う。

 

教員に

物静かにいることも美徳である

なんて言われたことも。

 

申し訳ないけどそれはおかしい。

おかしいことや疑問に対して

黙っていて良いことなんてない。

 

結局、そんな風に出来る人が評価される。

 

おかしいと思うことに対しては

自分がどんな立場であれ(例え学生であれ)

異議を申し立てる権利はある。

そうやって話し合いをしていって

改善したりしていくことが

その組織をより良くするためには必要

 

もっと色んな意見を交換できるのが

当たり前の世の中になってほしい。

変わって欲しいと強く思う。

苦痛を取り除くことが大事ではない

看護学校というのは、本当に辛いことが多い。

寧ろ辛いからこそ経験値が増えたのかもしれないし、成長できたかもしれない。

 

学校に行ってこその気づきというのが

苦痛を取り除くことが全てではないこと。

 

私はよく

その人らしく生きていくことを支える看護がしたいと思っていた。

 

その中で、苦痛緩和も大事であって相手の気持ちを察して苦痛緩和をしていきたいと思っていたが、教員にある日

 

苦痛を取り除くことがその人らしさではないよ

 

と言われてハッとした。

 

苦しみの中で、生を自覚する人もいる。

そんな人から苦しみを取り除くことは

その人らしさを奪うことになる。

 

その人らしさって、人それぞれ。

自分の価値観を押し付けるのではなくて、相手の価値観を受け入れて自分のできることとの折り合いをつけることが大切なのではないかと思う。

 

 

学校に行って良かったと思えたことの一つの出来事

 

投げ出すこと

これもまた妹と話していた時の話。

 

何か行動した時に実現させることだけが

大切だと思われることが多いけど

実はそうとも限らない。

 

何かを始めた時に

あ、これって合わないのかもと思ったら

別に途中で投げ出したって良い。

 

行動して自分に合わなかったという経験値が出来るから。

 

私は何事も行動することが大切だと思う。

それが途中で投げ出すことになったとしても

それで良い。経験が大切で人生を豊かに出来ると。

(経験しないことも1つの経験だけれど)

 

 

 

価値観の違う人と関わること

 

 

今までの自分だったら

この人、合わないからもう関わりたくない!

関わることでストレス溜まるくらいなら縁を切ろう!

というような人付き合いをしていた気がします。

 

(なんだかこのブログは以前の自分と比べて

今の自分が考えることを書いている気がします)

 

別にそれでもいいと思うんです。

職場ではなかなか切りたくても切れないのだからせめてプライベートくらいは我慢する必要はない。という前提の話ではありますが

 

"価値観が違う、合わないことを受け入れる"

 

ことも自分の人生経験において大切なのかなと思います。

 

家族でも友人でもやっぱり価値観って

人それぞれで、あー私とは合わないなと

思うことも本当に沢山あります。むしろ合う人の方が圧倒的に少ない。だから価値観が合ったり居心地の良い人は勿論とても大切です!

 

だけど、多分価値観が違う人と関わることで見えることも沢山ある。

 

こんな考え方があるんだ!とか

あー私はこうなりたくないなとか

そういう気づきというのは

同じ価値観の人同士では

中々気付けないのかなと。

 

だから、すぐに拒絶しないで相手の価値観を受け入れてみる。理解や共感が出来なくても。

 

人生って、楽しいことだけでは豊かにはならないから。

 

だからといって自分がボロボロになってまですることではないので、ある程度の諦めも必要。どんな人にせよ自分を大切にしてくれない人は時間を共有する価値はない。

弱音や愚痴は吐いた方が良い

 

昔から弱音や愚痴は吐くことはいけないことで

しない方が良いと思って生きていましたが

そうでもないなと最近思う。

 

 

なぜ吐かない方が良いのかと思っていたのかというと、それを自分で理解してしまうから。

愚痴や弱音を吐いた方がそれを具体的に意識してしまうと思っていた。

だけど、吐かないようにしようとすると

どうしても意識的に考えないようにしようとしてしまうので、逆に苦しくなる。

 

なので、愚痴や弱音は特定の人

自分が心許す関係にある人にはするように。

そうしてから心がすーっと楽になってる気がする

 

我慢することはなんて、あまり作らない方が良いのです😊